最近、ほとんどが“ながら見”になっている。
この“ながら見”というのは、昭和の終わりから度々問題視されていたようで、僕の好きな小説家である赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズ2作目でも“ながら見”に対する忠告があった。確か、このときはテレビのザッピングのことだったと思う。
ミステリー小説というのは読みやすいだけじゃなく、世間でははっきりとは言えないことをさり気なく伝えていたりする。
TicTokのの影響か、You TubeやInstagramでもリールなどで切り抜き動画が上がっている。
切り抜き動画とはいわゆる“いいところ撮り”だ。
バライティやドラマなどのいいシーンだけをカットして、切り抜き動画としてアップしている。
このいいシーンというのは、いい言葉を言ったときやクライマックスシーンなどのことであって、赤川次郎などの小説でいうところのストーリーの大枠の話であって、作家が言いたい小さな部分ではない。
本当に伝えたい部分は隠れたところでチョコンと座っているように存在している。また、いいシーンだけを見ても、その前後の脈絡が分からないと判断出来ないことがある。ニュースなんかはいい例で、前後の脈絡をカットして自分たちが発信したいシーンだけを切り抜きし、発信している。SNSが広まって有名人の発信が見えるようになって、そういうことがわかってきた。
切り抜きの流れで、早送りで観る人もいるらしい。
ストーリーをざっくり把握することは出来ても、そんなんじゃ、本当に伝えたい部分は感じ取れないだろう。
大枠なんてほとんどどれも同じで、じっくり観ることで、もしくは何回も観ることで気づく小さな発信こそが、映画や小説の楽しい部分である、勉強になる、学びの部分なのに、それを飛ばしてしまってなんの意味があるのだろう。
上辺だけを観て、すくい取り、勝手にわかった気になる。
考えることもなく、数十秒の説明しか聞けない。
ビジネスを仕掛けたい人にとっては良い獲物だ。
昭和の終わりから問題視されていたことは、すでに広がっている。
“ながら見”にとって、集中力も下がっているだろう。
スパルタ教育の後、怒らない教育から、好きなことに集中しているときにはそっとしておくということも行われるようになった。
つまりは好きなことをすることから集中力や考える力、行動力をつけようというものだけど、“ながら見”はその反対を行く。
僕が子供の頃は部屋に鍵がなく、母や急に入ってくる。
「あんた!今から塾ちゃうの!」と。
勉強をしていても、隠れて遊んでいてもびっくりするので、本当にやめてほしかったけど、びっくりして怒ると、塾に行く前のおやつとして買ってきてくれたドーナツが食べれなくんまるので、我慢した。
そうやって、いつ、誰かが、急に入ってくるかわからない場所では、何も集中出来ない。階段の音が聞こえる度に「この部屋のドアが開くかもしれない」と身構えるし、思春期なら尚更だ。
受験勉強をしようとしてもそのような環境下では集中出来ないので、学校や塾の自習室で勉強するか、家で勉強するときは、ドアは目の前、背中は壁という社長室スタイルで狭い部屋をやりくりしていた。
その結果、僕は集中力がないのだと推測している。ザッピングのように頭のなかで色んなことが駆け巡り、自分の意見を“ながら見”している。一つのことをじっくりと考える力がない。じっくり読書をする集中力がない。
なので僕は1回で長い時間集中して考えたり学んだりするのではなく、ちょっとずつ集中して長い期間かけて考えたり学んだりする方法をとるようになった。
幸い、昔から「これはおかしい」と思う気持ちはたくさんあったのだ。
今、若い子たちを含め、ほとんどの人がスマートフォンによって“ながら見”になっている。
色んなことを広く知れる反面、表面的にしか知ることが出来ないし、表面的な部分は知っても仕方ない。色んなことを簡単に知れる満足感にやられ、自分の表面的な見栄えばかり気にする。
そんなに色んなことを知る必要はない。
自分に必要なことは常に自分の前にあって、それが見えていない。
目の前のことを考え解決しようとするほうが大切で、
皆そこから逃げるために、スマートフォンを開き、“ながら見”をしてしまっている。
ちゃんと観て、ちゃんと読んで、ちゃんと考えて、
ほとんどの人と違う感想を持ったとしても、それはそれでいいのだ。
-化粧品研究者こまっきー
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