化粧品研究者こまっきーの語り部屋

化粧品研究者こまっきーが普段考えていることを書き留める、日記のようなもの。

ながら見という大きな罠。

最近、ほとんどが“ながら見”になっています。
この“ながら見”というのは、昭和の終わりから度々問題視されていたようで、僕の好きな小説家である赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズ2作目“三毛猫ホームズの追跡”でも“ながら見”に対する忠告がありました。このときはテレビのザッピングと言って、1つの番組をずっと観るのではなく、リモコンを片手にチャンネルをしきりに変えて、番組をぐるぐる観て回ることに対して指摘がありました。
小説というと読みやすく楽しい物語というイメージがありますが、それだけではなく、世間でははっきりとは言えないことをさり気なく伝えていたりします。

数年前からTikTokの影響か、YouTubeやInstagramでもリールなどで切り抜き動画が上がるようになりました。
切り抜き動画とはいわゆる“良いところだけピックアップした動画”です。
バライティやドラマなどのいいシーンだけをカットして、切り抜き動画としてアップしていたり、自身が作成している動画の中の良いところだけをピックアップしたショート動画です。
この良いシーンというのは、良い言葉を言ったときやラブシーンなどのことであって、赤川次郎などの小説でいうところのストーリーの大枠の話であって、“ながら見”と同じく作家が言いたい小さな部分は含まれません。
本当に伝えたい部分は隠れたところでチョコンと座っているように存在しています。大枠の流れはエンタメ重視になる傾向があります。その大枠を知っても、ただ面白いだけです。

良いシーンだけを見ても、その前後の脈絡が分からないと判断出来ないことがあります。
最後のラブシーンだけ見ても、本来はキュンキュンするはずがありません。その二人がどのような流れで今こうなっているか分かっているからキュンキュンするわけで、急にラブシーンだけ見せられても、それはそういう雰囲気を観ているだけのはずです。

ニュースもいい例です。前後の脈絡をカットして自分たちが発信したいシーンだけを切り抜きし、発信しています。切り抜きなので嘘はついていないけれども、前後の脈絡があってのそのセリフなのに、前後の脈絡がカットされることで、そのセリフの意味が変わってしまうことがあります。

これはSNSが広まって有名人の発信が見えるようになって、そういうことがわかってきました。とくにお笑い芸人のスクープなどでよくあるみたいです。
昔はお笑い芸人が週刊誌に取り上げられても、それに対して発言することはテレビなどの大きなメディアでしかできませんでした。ですが最近はTwitterなどで「これは全然違う!」とすぐに発言することができます。
これが出来るようになったことで、メディアは切り抜きをしていることがわかりました。
やはりメディアとはいえ人が発信するものなので、僕たちが楽しかった出来事や美味しかったご飯の話の気に入っているシーンを切り取り大袈裟に話すように、メディアもその傾向があるようです。

切り抜きの流れで、早送りで観る人もいるらしいです。
倍速で映画を観るそうです。
ストーリーをざっくり把握することは出来ても、そんなんでは本当に伝えたい部分は感じ取れないでしょう。
大体、ストーリーの大枠は起承転結があるかないかで、ほとんどどれも同じです。
じっくり観ることで、その映画監督のこだわり部分や今回伝えたいことが見えてきます。
もしくは何回も観ることで気づく小さな発見こそが、映画や小説の楽しい部分であり、勉強になる部分であり、学びの部分なのに、それを飛ばしてしまってなんの意味があるのでしょう。

上辺だけを観て、勝手にわかった気になる。
考えることもなく、数十秒の説明しか聞けない。
こんな人はビジネスを仕掛けたい人にとっては良い獲物です。
煽って、パッと答えを見せて、こちらからどうぞで完了です。
昭和の終わりから問題視されていたことは、かなり広がってしまいました。

“ながら見”によって、集中力も下がっているでしょう。
スパルタ教育の後、怒らない教育から、好きなことに集中しているときにはそっとしておくということも行われるようになりました。
つまりは好きなことをすることから集中力や考える力、行動力をつけようというものですが、“ながら見”はその反対をいきます。

僕が子供の頃は部屋に鍵がなく、母はノックもせずに急に入ってきました。
「あんた!今から塾ちゃうの!」とか「今日のおやつにドーナツ買ってきたで。」とか。
勉強をしていても、隠れて遊んでいてもびっくりするので、本当にやめてほしかったけれど、びっくりして怒ると、塾に行く前のおやつとして買ってきてくれたドーナツが食べれなくなるので、ぐっと我慢をしていました。
思えば、昔の大人は頭に思い浮かんだことをすぐ行動に移していましたね。

そうやって、いつ、誰かが、急に入ってくるかわからない場所では、集中出来ません。階段の音が聞こえる度に「この部屋のドアが開くかもしれない」と身構えるし、思春期なら尚更です。
受験勉強をしようとしてもそのような環境下では集中出来ません。受験の練習で時間を測って過去問を解いていても「先お風呂入る?」と急に母が入ってくるからです。
ドアの前に張り紙をしていてもお構いなしです。
なので学校や塾の自習室で勉強するか、家で勉強するときは、ドアは目の前に背中は壁という社長室スタイルに机をセッティングして勉強していました。

その結果が僕の集中力なさに少なからず影響していると考えています。
いつでもザッピングのように頭のなかで色んなことが駆け巡り、自分の意見を“ながら見”しています。腹筋しながら「今日の晩御飯何作ろ。」と急に思い浮かんで、腹筋が中途半端になってしまいます。
一つのことをじっくりと考える力がなく、じっくり読書をする集中力がありません。

なので僕は1回で長い時間集中して考えたり学んだりするのではなく、ちょっとずつ集中して長い期間かけて考えたり学んだりする方法をとるようになりました。
この経験から“ながら見”は集中力が続かない人になってしまうと考えられます。

今は若い子たちを含め、ほとんどの人がスマホを片手に“ながら見”をしています。
“ながら見”は色んなことを広く知れる反面、表面的にしか知ることが出来ないし、表面的な部分は知っても「へえー。」で終わりです。
たくさんの「へえー。」で1つのことを深く考える時間と余裕が無くなっています。

そんなに色んなことを知る必要はないです。
“ながら見”によって自分に必要なことは常に自分の前にあるはずなのに、それが見えなくなりました。
目の前のことを考え解決しようとするほうが大切であるのに、皆そこから逃げるかのように、スマートフォンを開いて“ながら見”をしてしまっています。
灯台下暗しならぬ、灯台下だけを見ています。

ちゃんと観て、ちゃんと読んで、ちゃんと考えてみる。
ザッピングに始まり“ながら見”で、考える思考は完全にストップしてしまうのでしょうか。

化粧品研究者こまっきー

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