80年代後半のラジオをYouTubeで聴いていてもこの言葉がありましたが、特に2010年以降、セクハラやパワハラなどの○○ハラスメントという言葉がどんどん広がっていき、「○○ハラになっていないか?」ということが、とにかく重視されるようになりました。
グーグルで“セクハラ 他”と調べると、関連する質問には“ハラスメント行為一覧は?”というのが出ていきて、約10個のハラスメントが挙げられています。
こういう社会の変化や広がりはテレビなどのメディアを通じて変化してきました。
メディアで取り上げられ、それを観た人が「そうだそうだ!」となって、社会全体に変化が生まれてきたように思います。
特にハラスメントは誰だってされたら嫌なことですから、問題として取り上げられたら、賛成の声は大きくなるでしょう。
その声がどんどん大きくなっていき、セクハラやパワハラ以外のハラスメント用語が生まれ、「あれもダメ、これもダメ。」となった辺りから、異変に気づいたのでしょうか。
芸人のラジオを聴いていると「僕らが気にしているほど、一般の人は気にしてないみたいやな。」なんて話がありました。
○○ハラスメントという言葉が増えていき、その度にダメなワードなども増えていき、メディアで活動する人はそれを意識しながら発言します。
メディアの方では僕らの知らないNGワードが増えているようです。
確かにラジオを聴いていても「そこまで気にするの?」と思うことがたまにあります。
いまメディアでは僕たちが考えている以上に気にしないといけなくなっているのでしょう。
芸人が「一般の人はそこまで気にしていない。」と感じたくらい、メディアと僕たちの社会には差が生まれていると考えられます。
テレビで人気番組があった次の日には、皆がその話題で盛り上がるようなことは無くなり、テレビで話題になったことを皆が知っているわけでも無くなり、とうとうテレビが気にしていることを一般人は気にしなくなりました。
それくらい、テレビと僕たちの間には差が生まれました。
YouTubeで動画を観たり、AmazonやU-NEXTなどで映画やドラマが観れるようになりました。録画していなくても、好きなタイミングで観れるようになりましたので、「今日はあの番組を観て、あっちを録画しよう。」とか、家族で観る番組と録画する番組で揉めることも無くなりました。それくらいテレビから離れており、皆が観ている有名な番組というのがなく、それぞれで好きな動画を観ているのですから、メディアによる意識の統制は難しくなったことでしょう。
テレビ離れの原因は行き過ぎたことにあると思います。
いくらYouTubeが発達しても、テレビが面白かったらテレビを観ると思います。テレビが面白くないからYouTubeに流れたのでしょう。その背景には“行き過ぎたハラスメント意識”があるのではないでしょうか。
あれはダメ、これもダメで今までオッケーだった言動が禁止になり、できることが減った結果、面白くなくなって、禁止されたことが観れるYouTubeに流れたのだと思います。
YouTubeでも規制はありますが、テレビで観れなくなったものがYouTubeで観れるから、YouTubeを観るのではないでしょうか。
当時、こうして○○ハラスメントが増えていけば、嫌な気持ちなることが減れば、社会は良くなると思っていた人は多いでしょう。
いま、どうでしょうか。
生きやすいでしょうか?
僕は平成生まれですから、平成初期や昭和に社会人だった人の方が何かしら実感があると思います。
NGな言動が増えたことで、おせっかいが減りました。
当然です。
何かしてあげようと思っても、それが相手にとっては嫌なことかもしれない、ハラスメントになるかもしれないと思えば、おせっかいにブレーキがかかります。
注意してパワハラと言われたら、社内での居心地が悪くなりますから、注意しなくなります。
おせっかいどころか、教育もままならなくなりました。
みんなが「これやったら良いんじゃないか。」と良いと思うことを行動する社会と「いや、そっとしておこう。」と良いことを思い浮かんでも行動せず黙っている社会と、どっちが良いでしょうか。
怒られて、ダメなことに気づくことはたくさんあります。
むしろ怒られないと気づけないことの方が多いです。
他人の考えや気持ちは推測は出来ても分からないものですから、注意されて初めてその人が感じていることを知ることができます。
「この人はそういうところで怒るんやなあ。」と、そうやって知っていかないと、いつまでも分かりません。
子供の頃は親だけじゃなく、友達の親が、そして先生がそれぞれの感覚で僕を叱りました。
その経験があるからこそ、色んな意見があることが、人それぞれの感覚で怒るポイントがあることを知ることができたようです。
怒られずに育つと、なぜそんなことで怒るのか?という疑問で思考が止まってしまうようです。
「私なら怒らへんのに。」と、怒られることがないと自分の怒りしか分からないようです。
大人になってからでは、修正がしにくくなることからも、子供の頃の体験はかなり大切であると考えられます。
○○ハラスメントが広がり、おせっかいが無くなり、注意することが無くなった今の社会は、自己責任がかなり強くなったようにみえます。
発言しにくくなった反面、誰も注意してくれないし忠告してくれないのですから、「誰のフォローもなかった。」「あの人が言うてたから。」という言い訳が通用しない自己責任社会です。
勝手に失敗している。そんな感覚です。
ひとりひとりが自己責任を強く持つことは必要です。
体調を崩したのは自分が気づいて調節しなかったからであり、失敗は自分の経験不足と無知のせいであると、自分自身に対して自己責任はしっかり持つべきだと思います。
しかし、社会が自己責任を押し付けるのは違います。
ひとりひとりが自己責任を、社会はその責任による負担を和らげてあげるべきだと思います。
許してあげる、助けてあげるべきだと思います。
ひとりでバランスをとることは難しいので、社会が反対側に回ってあげたらいいのです。
社会はひとりひとりには責任感を持たせて、社会自身は許容してあげたらいいのですが、社会は知らんぷりです。
行き過ぎたことに気付いたとしても、「ハラスメントじゃないか?」という懸念はいつまでも残っていくことでしょう。
この問題はバランスを取ろうとしても難しいと思います。
特に社会全体を巻き込むような変化は良い方向転換先が見つからないでしょう。
観るものがバラバラであるように、皆が同じである時代が終わった今、ひとりひとりの小さな社会で「どうするか?」と決めることが大切かもしれません。
化粧品研究者こまっきー
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