※ハリー・ポッターのネタバレがあります。
前回に引き続き、ハリー・ポッターの話です。
大人になって改めてハリー・ポッターを読んでみると、教育の参考本だなと感じます。
前回は思春期の子供の心の中を描写しているという点で、教育本ではないかという話をしました。
今回はもう一つ、読んで気付いたハリー・ポッターの教育と成長について、お話したいと思います。
教育という話になれば、誰もがダーズリー家のシーンではなく、ホグワーツをイメージするでしょう。その中でも、パッと思いつくのは、ダンブルドアやマクゴナガル先生ではないでしょうか。
ダンブルドアは色んなことが視えていて、あえて放任主義をしており、マクゴナガル先生は全員にフェアな厳しさで指導します。
一番近い先生は厳しく、一番遠い先生は優しくというのは理想的な立ち位置でしょう。
そしてそれぞれの教育についての話と思うかもしれませんが、ここで話したいのはスネイプです。
ダンブルドアはダンブルドアで、スネイプはスネイプで、
何故かマクゴナガル先生だけ、先生を付けたくなるのは、読んだことがある人なら分かってもらえると思います。
教育の話に「なんで、スネイプなん?」と思うかもしれません。
スリザリンの生徒に対して甘く、ハリー・ポッターに厳しく、好き嫌いで生徒への指導が変わるのは先生としては失格だと思うでしょう。
シリーズ最後のハリー・ポッターと死の秘宝に書いてありますが、
スネイプはハリー・ポッターの母が好きでした。
そしてハリー・ポッターの母が好きというだけで、ハリー・ポッターを守りました。
最後の最後でハリー・ポッターを守ったシーンを観て、「だったら今までも優しく接したら良かったのに。」と思ったでしょう。
スネイプは映画では嫌味をいうような役回りでした。嫌味をいう以外に出番が少なかったなと思います。本では、ハリー・ポッターに、そしてグリフィンドールに厳しく、事あるたびに減点をしていました。スリザリンに甘く、ハッフルパフやレイブンクローはさておき、グリフィンドールになにかあるとすぐに減点と罵倒。特にハリー・ポッターの行動には目を光らせていました。
するとハリー・ポッターたちは思います。
「あいつはスリザリンをえこ贔屓する最低なやつだ。」と。
本を読んでる人、映画で観てる人もハリー・ポッターと同じ気持ちになっていたと思います。
しかし、大人になって読んで、違う考えが浮かびました。
スネイプはダンブルドアに忠実でした。
最終的にはハリー・ポッターを守りました。
そして闇の魔法使いが多く排出されるスリザリンの寮監をしており、閉心術が得意です。
これらを知った上で、1作目のハリーポッターと賢者の石から読み直してみると、「スネイプはもしかして、わざとスリザリンに甘いんじゃないか?」と思いました。
僕は高校の頃、全国高校ラグビー大会で6回優勝している高校のラグビー部に所属していたので、上手くなるには厳しい練習が必要であることを実感しています。
気持ちよく汗をかくくらいの運動量では、全国優勝することはできないでしょう。
また厳しいとは、コーチが怒鳴り散らすことではありません。
人は自分で頑張ろう、強くなろうと思っていても、サボりたくなる日もあります。コーチはそんなサボりたくなる気分に厳しくなくてはいけないでしょう。
特にラグビーは身体と身体がぶつかる競技ですので、集中していないと怪我をしてしまいます。
楽しくやって成長することもありますが、楽しくやっているときでも上手くなる人は人より何倍もこなしています。気づいてないだけで、厳しさがそこにはあり、厳しさも含めて楽しんでいるのでしょう。
集中しないと怪我してしまう、厳しい練習を重ねないと強くはなれないことはハリー・ポッターの中でいうなら、実技がそれにあたります。
魔法学校を卒業した後は、どの仕事に就いても魔法を使った実技がメインとなります。
となれば、魔法学校中は厳しく細かく指導されていたほうが、後々役に立つでしょう。
スネイプはダンブルドア側の人間です。
ダンブルドア側ということは、闇の魔法使いに対して敵対しています。
となれば、闇の魔法使いの道に進みやすいスリザリンの生徒は強くなってもらっては困るでしょう。
「スネイプがスリザリンに甘いのは、将来闇の魔法使いになっていくかもしれない子どもたちを強くしない為じゃないか?」と思いました。
それを感じる部分の描写として、マルフォイは常にハリー・ポッターに勝てません。
クィディッチでは全敗しています。
マルフォイの子分も魔法を制御出来ずに暴走させています。
ただ、嫌味をずっと言っているだけです。
一方、厳しく指導され成長したハリー・ポッターは“名前を言ってはいけないあの人”と
対等に闘い、ロンやハーマイオニーたちも死喰い人たちと対等に闘っています。
高度な魔法を使いこなし、誰か大人がついていなくても、
保護呪文をかけながら3人であっちこっち行って分霊箱を探しました。
僕が子供の頃は先生に怒られたし、殴られたりもしました。
親からも怒られたり殴られたりしていました。
それが本当に怒っているときと、形式的に怒っているときと、ただ虫の居所が悪いときがありましたが、どれであるかは子供ながらに気づいていました。
今は保護者側がうるさいので、そういうのは無くなっているそうですが、先生や親が本当に怒って、僕を殴るとき、僕は自分が悪いことしているのはわかっていました。
怒られる以上の悪いことをしたので、殴られる。
僕は、殴られるのは嫌だけど、理解していました。
また形式的に怒るときや、虫の居所が悪い時の八つ当たりも、経験していたからこそ、自分が同じような状況になったときに「ああ、これか。」と気づくことが出来ました。
経験をしていないと気付けない感情はたくさんあります。
体罰が問題になり、怒らない教育が流行りました。
その結果、怒られ慣れておらず、ちょっとしたことでダメになってしまう人が増えたように感じています。
新入社員がすぐに辞めてしまうと株主の評判が悪くなるために、上司が部下に優しくしなきゃいけなくなりました。
新入社員が会社に合わせるのではなく、会社が新入社員に寄り添うようになりました。
怒られず、否定されずに育つと、失敗に気づけません。
自分が考える答え以外の答えを知ることが出来ません。
すると、入社したてなのに新入社員は研修中に「私の本領が発揮されない。」と言います。
入社したての新入社員は自分は出来ると思っているので上司にアドバイスを求めることもありません。
自分は出来る人だと思っているので、上司に聞いて知識を深めるわけでもなく、新入社員はいつまでも成長せずに、給料の愚痴を言って転職していきます。
新入社員全員がそうではありませんし、なぜか30代40代にもそういう人がいますが、この傾向は年々多くなっています。
誰も注意しないので、人が成長せず、会社も成長しない。
そんな人や会社が多いように感じています。
怒るのが良いのか。怒らないほうが良いのか。
言ってもわからない子供には殴るしかないのか。
ここを議論すると両方の言い分があり、僕は両方の気持ちが分かるので、この問題の解決は難しいです。
個人的には、「色々経験しといたら?」と思います。
社会全体で統一するのではなく、それぞれの環境で違う環境を経験をすることが大切だと思います。経験は多いに越したことはありません。
怒る殴るという行動の部分を除いて考えても、厳しくすることは大事です。
ハリー・ポッターには皆それぞれの方法で厳しく指導しました。
ダンブルドアは放任主義というやり方でハリーを厳しく指導しました。
校長が放任主義でそれぞれの先生のやり方を尊重していたからこそ、生徒達は学校の中で、様々な大人を知ることが出来たのでしょう。
マクゴナガル先生は事細かく指摘する方法で、生徒全員を厳しく指導しました。
スネイプの贔屓は、スリザリンを弱くするための厳しさでした。
スネイプはハリーを罵倒しながらも、細かく厳しく指導しました。
結果、ハリーたちは強くなり、スリザリンたちは弱くなりました。
ダンブルドアが校長だったときは、生徒も先生もイキイキしていました。
ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団のときにドローレス・アンブリッジが校長となったときも、スネイプが校長になったときも、先生の指導方法にも指摘が入り、先生の言動も生徒の言動も監視されるようになりました。
そのときの先生や生徒の気持ちを知れば、社会全体で統一しようとする動きはドローレス・アンブリッジやスネイプが校長になったときと同じような空気に社会が包まれることに気づくでしょう。
怒るのはダメで、体罰っぽいものは全てダメ。
そういう社会になってしまった今、元に戻すことは難しくとも、厳しくすることを諦めちゃいけないと、ハリー・ポッターや他の生徒達の成長ぶりをみて、そう思いました。
化粧品研究者こまっきー
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