普段から情報収集するときは、発信者の視点をなるべく理解して、情報を見るようにしています。
例えば政治のニュースは分かりやすいと思います。
自民党派の人は、自民党の良いところを話そうとします。
野党のそれぞれの政党を推している人たちは、とにかく今の自民党政治がダメであることを主張するでしょう。
たまにどちらでもない、良いときは良い、悪いときは悪いと自分の物差しを持っている方がいらっしゃいますが、そういう人は珍しいと思います。
ということは、野党のそれぞれの政党を推している人達は自民党に良いところがあっても、その情報を発信するはずがありません。そういう人たちの発信を見て「自民党はダメなんだ。」と考えてしまうのは、早計な判断だと思います。
反対に、自民党を推している人達の情報を見て、「自民党頑張ってるな。」と思うことも早計です。敢えて自民党内部を批判しているときもあります。
情報を発信する人が推している政党がどこかを理解した上でその情報を読み取り、自分なりに解釈しなくてはいけないです。
大手メディアであればどこも似たような視点でしたが、SNSが普及したことによって様々な視点からの情報が入ってくるようになりました。
すると今までのように1つの視点から解釈するのではなく、まずはどういった視点からの発信なのかを理解するところから始めなくてはいけなくなりました。
たくさんの情報が入ってきたことで、今まで見えていなかった情報が入ってくるようになりました。それが良いことだとされていますが、視点を理解しなければ、今までと同じように情報に振り回されるだけとなってしまいます。今まであまり気にしなくて良かった、発信の大前提なるものが崩れたので、今までの大前提の部分である発信者の視点を考えるところから始めなくてはいけなくなりました。
今回のタイトルである“日本人とアメリカ人”は、最近読んだ山本七平さんの本のタイトル“日本人とアメリカ人”です。
この本は昭和50年、戦後始めて昭和天皇が訪米された際に、山本七平さんが週刊朝日から“日本人とアメリカ人”というタイトルで連載を依頼されて、実際にアメリカに行って色んな人との対談から感じた日本人とアメリカ人の視点について書かれています。
SNSでは発信者の視点を理解しなければ、間違った情報収集をしてしまいます。
その視点というのはどういうものがあるのか、この本は日本とアメリカの文化の違いを取り上げています。それもよくある噂話ではなく実際に対談をされて感じた部分ですので、非常に参考になると思ったので、本の一部を紹介したいと思います。
本から抜粋した文章は“---”の間に書き、僕の意見は“→”以降に書きます。
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納得すれば、テレずに意見も態度も変える。従って昨日の多数も翌日には少数になり、多数は流動的で固定しない。固定しないから「これが天下の世論だ」などと高圧的に言ってもききめがない。
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→日本では、先入観のような世論が必ずあると思います。変わらない、こういうときはこうするべきだ論です。そういうものはアメリカにはなく、こうするべきは流動的だという話です。
また、自分が納得するまで質問を追求する傾向があり、モヤモヤとした感情を残さないそうです。
日本人には世代関係なく受け継がれている先入観がありますし、質問責めはあまり良くない印象があります。僕は美容室に行って、やりたい髪型を見せたのですが、やりたい髪型よりも髪の毛が長く「もうちょっと切って欲しい。」と言い、切ってもらってもまだ長く、もう一度「もうちょっと切って欲しい。」と言ってもまだ長く、美容師側が「もういいやろ。次の客さん来るねん。」という雰囲気を醸し出しているのを感じて、自分にとっては中途半端な髪の毛の長さでも遠慮して美容室を後にしたことがあるのですが、こういうことはしないのでしょうか。
最近のアメリカで言えば、トランプの発言はこれに近いです。
以前、トランプはティックトックを批判していましたが、今は禁止に反対しています。これは納得というよりは自分に得があるからだそうですが、以前反対の発言をしていたはずが、なかったかのように発言しているのをみていると、これがアメリカ人の感覚なのかなと思いました。
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『デンバー・ポスト』の編集長、『二世の歴史』の著者ビル・細川氏の答えは面白かった。氏は次のように言われた。 「日本でもアメリカでも、小学生が、ある一人を『やっつけちまえ』ということがあるでしょう。日本では『生意気だ、やっつけろ』ですが、アメリカでは『フェアでないから・・・』となるのです」と。」この場合、「生意気」も「フェアでない」も、ともに、自己の暴力を正当化するための名目にすぎない。ただ面白いのは正当化の一方の名目が「生意気」で、もう一方が「フェアでない」という事実である。
このことは、そう判定されれば、もうどうにもならないから、「生意気だと言われまい」また「フェアでないと言われまい」と、子供のときから自己規制し、共にそれが大人の世界まで通じていることを意味する。
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→「生意気だ、やっつけろ」は僕が子供の頃もありましたから、この感覚はよくわかります。しかし、この「フェアでない」という感覚がイマイチよく分かりませんでした。「フェアでない」ことの説明は、本の中では何回か出てくるのですが、なんとなく理解できるような出来ないような、理解出来たと思っても自信がもてないような理解で読み終わりました。
この「フェアでない」という感覚で、洋画の学生のいじめのシーンを観ると、今までとは違った解釈になるのでしょう。
洋画でいじめのシーンがあっても、それは“生意気”ではなく“フェアでない”ということですから、僕は間違った解釈で洋画を観てしまっているようです。
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禁煙バーとか禁煙コーヒーハウスとかは、アメリカでは少々流行らしい。そういうバーに入って、Nさんがカウンターで喉を潤していると、町のオニイちゃんといった風体の二人連れが入って来て、禁煙を無視してタバコに火をつけた。その瞬間、店主が、ものすごい見幕で、「タバコが吸いたきゃほかの店へ行け。オレの店に入るならオレの店のルールに従え。いやなら出ていけッ」と怒鳴った。アメリカ人が拳銃をつきつけるのはああいう時なんですよ。
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→これは本では第六章“天皇制のないアメリカに君臨する「オレ様が法」”で書かれていた話です。アメリカは法だらけの国で、合衆国憲法に州憲法、州法、市法、町法、村法から、禁煙コーヒーハウスのように私的な法まで沢山の法とルールがあるそうです。
この章を読んで、平成のルールによる規制を思い出しました。平成はとにかくルール、ルールで、何かあれば相談して解決するのではなく「嫌な人が一人でもいるならルールで規制してしまおう。」と沢山のルールを作りました。アメリカ人はオレ様が法というスタンスですが、日本人は右へ倣えですので、ルールによる規制は日本人全体の肩身を狭くしました。
アメリカで起こったことは10年20年後に日本でも起こると言われています。
アメリカでは日本よりも早くにマイナンバー制度を導入しましたが、なりすまし詐欺が多発しました。いま、日本でも同じようなことが起こっています。マイナンバーカードの偽装は簡単にできるそうです。本人確認の際に顔をスキャンしますが、なんと紙にカラー印刷した顔でも読み取ってしまうそうです。
簡単に偽装されたマイナンバーカードとプリントされた顔写真があれば、簡単になりすまし詐欺が出来るといった点は過去のアメリカに近いものがあります。
他にも、アメリカでファッションデザイナーをしている日本女性との会話で、服のデザインを「盗作しました。」と堂々と電話してくる人が結構いるという話がありました。それも電話してきた人は「すみません。」という気持ちがゼロで、求められれば氏名も住所も電話番号も堂々と言っちゃうそうです。アメリカ人である旦那さんは「コソコソやられるよりも堂々と通告されたほうがいい。」という感覚だと書いてありました。
ファッションデザイナーをされている日本人女性も、その話を聞いた山本七平さんも、本を読んだ僕も腹立たしいと思うのですが、そういった感覚はアメリカ人にはないそうです。
この本を読むと「こんなにも視点が違うのか。」と思うことが他にも沢山あります。
後半ではサザエさんとスヌーピーの違いも取り上げていました。
この本では日本人とアメリカ人の違いですが、おそらく日本人同士でも同じような視点の違いはあるでしょう。
そしてどういうところに違いがあるのか、どういう感覚の違いがあるのか、この本はその違いを見つける参考になると思います。
また、今後アメリカの動きは日本にとってかなり重要になるでしょう。
今ではアメリカ人が発信するニュースやSNSの内容を簡単に翻訳して読むことが出来るので、アメリカで何が起こっているのか、どういう動きがあるのかなどの情報は入ってきやすくなりました。
しかしこの“日本人とアメリカ人”の視点の違いを考えず、日本人の視点でアメリカの動きを見てしまうと、間違った解釈になってしまうと思いますので、ニュースで見るアメリカの動きや発言の意図をアメリカ人の視点で理解するのに役立ちます。
よく分からない感覚がいくつもありましたが、リアルタイムのニュースとこの本で書いてあることを照らし合わせて、情報収集していこうと思っています。
化粧品研究者こまっきー
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