化粧品研究者こまっきーの語り部屋

化粧品研究者こまっきーが普段考えていることを書き留める、日記のようなもの。

ニュースで本当のところが分からないのは参観日と同じ。

SNSが普及してから特に、「本当のところを話してくれたらいいのに。」と口にする人が増えたなと感じています。
単にSNSという呟き場所が生まれたので、目にする機会が増えただけかもしれませんが、政治批判と同じくらい、“本当のところを話す”ことを求めているように思います。

それはテレビや新聞ではなく、SNSという個人で発信できる場所が生まれたことで、メディアに対する疑念が深まったからでしょう。
SNSではテレビで発信した内容に対して、「いや、現地に住んでいる者ですけど、そうじゃないです。」と動画や写真と一緒に現地の様子を伝える人がいます。
その投稿を見ると本当に全然違う内容であることがあって、「テレビよりも現地の人の方が信じれる。」という気持ちから、「マスメディアは本当のところを話さない。」と感じるようになったのでしょう。
僕もそう感じることもある反面、地元の人と偽って情報操作することも出来るなと考えています。
「いやいや、そんなことして誰が得するねん。」と思うかもしれませんが、それをいうならマスメディアも同じです。マスメディアは株主の意向に沿って発信しているなら、誰かの意向で地元の人と偽って情報操作することもあり得るでしょう。
マスメディアは読売テレビなら読売テレビと発信者が特定されていますが、SNSの個人のアカウントは本名でもありませんし、どこの誰かも分からないのですから、偽りやすいのはSNSの方です。

政治の本当のところが分からないのは、子供の参観日のようではないでしょうか。
子供の頃の参観日を思い返してみると、まず前日に教室を綺麗に整理整頓します。
「ここにリコーダー置いてるの誰!」と先生が半ば怒り気味に言い、「ちゃんとなおしときなさい。」と子供に言います。
そしていつもより入念に掃除します。
当日、先生はいつもと服装が違います。
いつもと話し方も違います。
授業中はいつもなら手なんて挙がらないのに、なぜか手が挙がります。
普段は子供に「はい。誰々、これ分かるか?」なんて聞かないのに、参観日に限ってそれをします。

後ろのロッカーの上にリコーダーが出しっぱなしになっているのは、いつも目についているはずです。
それを参観日の前日だからといって、怒り気味に言うのは変です。
それなら出しっぱなしになっているたびに怒るべきです。
いつもより入念に掃除するのは、子供はいつもちゃんと掃除していないと考えているようなものです。
服装や話し方はなぜ違うのでしょう?
ちょっと教室がシーンとし過ぎていると「今日は緊張してるんかな。(苦笑)」とか言います。いつもはみんな寝ているんですが。

もっと不思議なのは、その様子を見に来る親が「いつも通りにしろ!」と誰も言わないことです。
子供の頃に同じような参観日を経験しているのですから、参観日はいつもと違うことはわかっているはずです。
なのに、子供が家に帰ってきたら「あの先生面白いな。」とつくられた授業について話をします。

参観日の目的は、普段の様子を見てもらうことです。
体育祭や文化祭、合唱コンクールのような特別な行事ではなく、普段の授業の様子を保護者に見てもらうために参観日があるはずです。
ですが実際には特別な行事のように、子供には違和感に感じる授業を親は観にきています。

子供の頃に同じことを経験しているのですから、いつもと違うことは分かっていながらも、そこに対して指摘をしないのは、参観日はこれでいいと思っているからなのでしょうか。
保護者は自分がイメージしている授業の様子が見れたら満足で、学校側はいつもの状況は見せられないので、保護者がイメージしている綺麗な教室で丁寧で活発な授業を見せて満足してもらえればいいというのは、双方共に目的は同じベクトルで本来の目的とはかけ離れています。
これやったら、ただのフィクションです。
そしてここに、SNSで「いつもの授業はもっとひどい!」と動画を投稿する人が出てくれば、親は「どういうことですか!」と、なぜか怒るでしょう。

ニュースに関しては参観日のように、分かっているけどSNSで暴露されるまで黙っているわけではないと思いますが、ニュースを発信するメディアとそれを見る一般人の間に何かしらの同じベクトルがあるのではないかと感じています。
それは参観日と同じように、本来の目的とはかけ離れていることも多々あるでしょう。
それゆえに「メディアは本当のところを話さない!」とSNSで怒りをぶつける人がいるのですが、それは少数派ですから、マスメディアは今でも大衆の一般人が満足できる情報を、同じベクトルの情報を発信できているのでしょう。

ちなみに本当のことを話さないことが良い時もあると僕は考えています。
例えば大きい台風が上陸するので、警戒するように注意を呼びかけていたけれど、いざ上陸すれば台風が弱くなったとします。
すると一般人は「なんや、風そんなに強くないから遊びに行けるやん!」と考えることもあるでしょう。
その人が今いる場所が台風の目に位置し、ただ今いる場所が風が弱いだけの可能性もあります。
時差で大きな波が来る可能性もありますし、土砂崩れが起こる可能性だってあります。
その注意喚起よりも台風の警戒の方が一般人に危機感が伝わるのであれば、ギリギリ台風を保っている状態でも台風として発信したほうが、災害に巻き込まれにくくなるでしょう。
実際には良心で“本当のところ”を話していないのかどうかはわかりませんが、この可能性もあると思います。

参観日のように、僕たちは日頃から偽りを見せることに慣れています。
自分たちもメディアと同じように参観日では先生も子供も親も、いつもとは違う行動を取って、それを観て満足しています。
メディアを通してつくられたニュースもそれと同じようなものではないでしょうか。
メディアの株主の意向もありながらも、観ているほとんどの人が満足、納得できる情報を流す。
満足、納得できることは、必ずしも“本当のところ”ではないでしょう。
人は見たくないものは見たくないし、信じたくないものは見向きもしません。
それでは視聴率は下がり、テレビの存在意義がなくなるので、“本当のところ”よりも“満足、納得できる”情報を流すのではないでしょうか。

テレビの視聴率の低下から、マスメディアはもう誰も観ていないという話がありますが、単純に共働きが増えたからでしょう。
実際に、テレビの視聴率が下がり始めた2005年あたりから、共働きが同じような棒グラフで増えています。
今はテレビの番組を分割してYouTubeで発信しているので、マスメディアの力が弱まったのかどうかは視聴率だけでは判断できないです。

以前に“本当のところはみる視点で変わる”という話をしましたが、今回はそこには触れずに、参観日を例えに、分からなくて当然だと言う話をしてみました。
参観日の授業を見ても、子供の普段の学校生活も授業の雰囲気も全くわかりません。
それと同じように、ニュースを観ても、先生のような人が情報を操作し、視聴者が満足できる情報を発信しているのではないでしょうか。

参観日とニュースの内容のように、難しく考えなくても同じような仕組みは生活のあちこちに転がっていると思います。

化粧品研究者こまっきー

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