だいぶ前に、誰が言ったのか覚えていませんが、「日本ってご飯が美味しいしかないですよね。」と言ったその一言を思い出しました。
多分、その前には世界と日本を比べて、日本は残業が多いのに給料が低いとか、家が狭いとか、街がオシャレじゃないとか、マイナスに聞こえるような部分をピックアップして、「日本ってご飯が美味しいしかないですよね。」と言ったのだと思います。
生活を送るうえで、満足感を得ることは多いに越したことはありません。
その満足感の基準は人それぞれなはずですが、結構世間の流行みたいなものがあります。
昔は“頑張って働いて高級ブランドのバッグを買うこと”がよくある一例だったのが、少し前からは“身近なこと”へと変わっていきました。
僕はそもそも自分が欲しいから、そのブランドのバッグを買うわけであって、流行っているからその流行に流されて買うにはブランドのバッグは高すぎると思っています。僕もサンローランのバッグを買ったことがありますが、それはオンラインで何回も観て「やっぱり欲しい。」と思ってお金を貯めて買いました。
その一種の流行のような満足感を得る行動であるかのように「ボーナスが入ったから、ブランドもののバッグ欲しいなあ。」と言う人とウィンドウショッピングをしたことがありますが、やはり特別好きなブランドがあるわけでもなく、ボーナス入ったから何かを買いたいという気持ちが強いように思いました。
なので、ボーナスが入ったらブランドのバッグを買うということはあまり良いとは思わないのですが、かといって最近の“身近なことで満足する”という流れも、結構曲者であると感じています。
“身近なことで満足する”という流れになる前までは、社会はどうだったかというと、まずコンビニはほとんどありませんでした。徐々に増えている段階でした。
百貨店は特別な場所で、ユニクロなどのファストファッションが入っていることもありませんでした。クリスマスが舞台の洋画であるようなデパートのような雰囲気とまでは言いませんが、子供のおもちゃコーナーは結構充実していて、大人の買い物が終わるまでそこで色々観て楽しんでいたのを覚えています。
百貨店のおもちゃコーナーはトイザらスとは置いてあるものは同じなはずなのに、お店の雰囲気が全然違い、なぜか高級感がありました。
子供服を買う時も、百貨店はやっぱり違います。
小学生の頃は近くのイズミヤとかダイエーの中にある服屋で買うのが一般的でしたが、母はあまり服のデザインが好きではないらしく、僕の服は百貨店で買ってもらうことが多かったです。
その分、他の子と違って、服のバリエーションがかなり少なかったのを覚えています。
服を買ってもらうときは、修学旅行とか何かあるタイミングだったり、正月のバーゲンで買ってもらっていましたが、すぐ学校に着ていくことは出来ませんでした。
新しい服は修学旅行とか、何か特別な時に初めて着るもので、普段は今まで来ていた服を着ていました。
イズミヤやダイエーではラックにかかっている服の中から気になるものを選んで、サイズを見て、試着室にいきます。
試着室に行くまでは、店員さんは一言も声をかけてきません。
ところが百貨店の場合は、服を選んでいる段階から声をかけてきます。
何を探しているのか、サイズはどれくらいか、そういうコミュニケーションをして、場合によっては店員さんの方から「こんなんどうですか?」と提案してきます。
大人のお客さんと同じように子供に対しても丁寧に接してくれるのが、百貨店の店員さんでした。
百貨店になぜあんなに魅力があったのかは、こういった接客やお店の作り方にあったのでしょう。
コンビニが増えてくると、コンビニスイーツというのが流行りました。
その流れに乗って、全国チェーンのスイーツのお店も同じように、なにか流行るものを作るようになりました。
どこかとコラボするようになったのは、コンビニスイーツが出始めた後だったと思います。
ミスドも僕が子供の頃は定番商品ばかりでしたが、可愛いデザインや期間限定品、コラボ商品など注目が集まるような商品が出てきました。
おそらくこの頃から、徐々に“身近なことで満足する”流れが生まれてきているのでしょう。
しかしこれは、見ての通り、誰かが仕掛けた流行なのです。
高級ブランドのバッグを買うことから、もっと大衆に向けた流行を打ち出しただけだと僕は思っています。
そもそも、満足感を能動的に得ようと思わなくても、受動的に、勝手に満足感を得られるチャンスはやってきます。
それが、ご飯の時間です。
1日3回、おやつ込みで4回、何かを食べる機会があります。
高級レストランで美味しいご飯を食べて「あ〜幸せ。」となるのは誰もが想像できると思います。満足感を得られるだろうことは簡単に想像ができますが、僕はその特別なご飯の時間ではなく、日々のご飯の時間で十分満足できると考えています。
例えば、「今日のお昼は、あそこのオムライスが食べたい!」と思いながら午前中仕事をして、お昼にそのお店に行ってオムライスを食べると満足感を得ることができます。1000円くらいのオムライスで満足感を得られています。
これはなぜかと言うと、そこのオムライスが食べたいからですが、もっと言うと、そこの美味しいオムライスが食べたいからです。
美味しいという表現には価格設定がありません。
1000円のオムライスでも、1万円のコース料理でも、家庭料理でも、美味しいと感じて満足感を得ることができます。
1万円のコース料理は別格だと思っているなら、それは高級ブランドのバッグは別物だと考えているのと同じです。1万円のコース料理だから美味しいわけではなく、その料理が美味しいのです。僕はここを間違えないで欲しいと思います。
美味しいに価格設定はないのです。
もちろん、1000円よりも1万円の方が美味しくなくてはいけないので、僕は1000円の美味しいと1万円の美味しいの基準は違います。1万円のコース料理が1000円のオムライスと同じようでは納得しません。金額に合わせて美味しいの基準は変わりますが、美味しい=この価格ということはないのです。
なので僕たちは色んなご飯で美味しいと感じます。
家の料理やファーストフード、定食屋の定食に、イタリアンに高級フレンチに鉄板焼きなど、ありとあらゆるご飯で美味しいと感じ、そのときに満足感を得ることができます。
“ボーナスで高級ブランドのバッグを買おう”とか“身近なことで満足しよう”とか、満足感を得られるのはこれだ!という基準がないのが、ご飯の時間です。
そのご飯の時間は、高級ブランドのバッグを買いにくように自ら行動しなくても、勝手にやってきます。
1日3回、おやつ込みで4回、勝手に満足感を得られるチャンスが必ず訪れるなんて、こんなことはご飯の時間くらいしかないでしょう。
だから僕はご飯の時間を大事にしています。
家で作る料理も、美味しいと思えるものを作りたいと考えていますし、メニューが同じものばかりにならないように考えます。
やっぱりいくら美味しくても、同じような料理が何日も続くと飽きますし、ここは日本人特有の感覚だなと思います。
パリに行けば、やっぱりパンにパスタなどの料理ばかりです。
台湾に行けば、中華料理ばかりで、日本のように食堂街に和食と中華と洋食にパスタと様々なジャンルのお店が並んでいることはそうありません。
それくらい、日本人は毎日同じジャンルを食べ続けれないくらい、食べることが好きなんだろうと思います。
そのご飯の時間の中でも、特に僕は家庭でのご飯の時間を意識しています。
仕事から帰ってきて、まあまあのご飯よりも、美味しい方が疲れが取れるような気がします。
家のご飯が美味しいと「今日の晩御飯は何かな?」と楽しみに帰ってきてもらえるかもしれません。
お弁当も美味しいお弁当だったら、お昼まで頑張れるかもしれません。
別に特別な料理じゃなくていいんです。
毎月作るオムライスを、どこかのお店で美味しいオムライスに出会ったら、真似してみようと思ってチャレンジして、美味しくできれば今までよりも満足感の高いオムライスになります。
そして、僕らはこういう目の前にあるすごく身近な満足を見過ごして、何か新しい行動をしなければ満足できないと思いがちです。
美味しいご飯を作ることは、お金がかかることではありませんから、プラスで出費がかからずに満足感を得ることができます。
出費を抑えて満足感を得られるといえば、コスパやタイパという言葉が生まれている今の社会には響くでしょうか。
すごく身近な満足は他にも沢山あると思いますが、ご飯の時間ほど勝手に訪れる満足感ゲットのチャンスはないと思うのです。
化粧品研究者こまっきー
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