僕は何かニュースをみたり情報収集した時には、自分が経験してきたことの中で似ているものを探して、それをイメージしながら考えてみるようにします。
例えば体の中を勉強していると、まるで工場の流れ作業のようだと感じます。
代謝経路を見てみると、食べたものが自然にエネルギーに変わるのではなく、反応があって成分がどんどん変わっていきます。
解糖系、クエン酸回路、電子伝達系と3つの経路を通して沢山のエネルギーが作られます。
これはまるで工場の流れ作業です。
工場の流れ作業は、一人一役です。ネジを止める、部品をはめるなどありますが、これらを1人が複数行うことは人手が足りない時以外は殆どなく、大抵は一人一役です。
僕が実際に経験した、サンドウィッチの工場を例にしてみます。
サンドウィッチのパンを機械でカットしていくレーンが1つ、サンドウィッチを作っていくレーンが1つ、出来たサンドウィッチを運んでいく係の合計3つの役割がありました。
解糖系、クエン酸回路、電子伝達系のように、工場も大きな区切りで分けられています。
サンドウィッチを作る時も、卵を乗せる人と、卵を塗り広げる人は別の人です。
そうしないと効率が悪いからですが、この一人一役で、ぱっぱぱっぱとこなしていく様子は体の中の仕組みと似ていると思います。
このように、作るものや使うもの、スケールは違えど、大きな仕組みが似ているところは結構あります。
その1つに教室があります。
誰もが一度は経験したことがあるであろう、教室の環境は、今の社会を考えるのにヒントになるはずです。
文化祭で出し物を決める時、文化委員が前に出てきて、みんなに案を聞きます。
この時に文化委員の子が普段どういう人かどうかで、決まるものは変わってきます。
普段からリーダーシップを発揮している人だと、周りはその人任せになりがちです。
リーダーシップを発揮している人のグループから意見がでて、文化委員のリーダーが「それいいな!」なんて言うと、他の案は通りにくくなります。
リーダーという言葉で想像しにくければ、ガキ大将でもいいですし、主張の強い女子でもいいです。
そうではなく、普段は目立つポジションではないのですが、こういうときにリーダーシップを発揮する子もいます。その子のやり方は、まずはみんなに意見を聞いていきます。
場合によっては、意見がありそうなのに言えていない子に声をかけて、意見を促すことをします。案が出たら、現状把握をします。他のクラスの出し物が被ると抽選になることもありますので、他のクラスの状況を知っている人に聞いて、みんなの案と他のクラスの現状を照らし合わせて、多数決を取ります。
似ている出し物があれば、2つを合わせた出し物を提案したりします。
こうして、文化委員の自分がどの案に賛成することなく、みんなの意見主導で話をまとめていきます。
自分の過去の学生生活を振り返ってみると、文化祭など何かを決める時は、大きく分けて2つのリーダーがいました。
皆さんも中学生や高校生の頃を振り返ってみると、そうだったのではないかと思います。
そして、その当時の自分の気持ちではなく、今改めて、誰が良かったのかを考えてみます。
この時、振り返って、理想像を考えるのではなく、理想に一番近い人を探すと、その時の周りの状況も含めて考えることができるので、「今考えたら、あの子がリーダーだった時はよかったな。」と思うリーダーのやり方と、その周りの動向を振り返ります。
僕はそこで良いと思うリーダー像や周りの状態が、選挙の時などに当てはめることができると思います。
次に何か選挙があった時、教室の状態を思い出して、候補者の発信やSNSなどの周りの状況を照らし合わせてみてください。
また、文化祭の出し物の時に、他のクラスの情報収集をするあたりは、クラスが1つの国のようになっています。
子供たちで話し合って決めるはずが、横から口を出してくる担任は、まるで官僚のようです。
子供たちが主導で決めていくはずが、担任の先生にもどうすることもできない時があります。
担任の先生よりも上の人、校長や教頭から言われたことは反対することができないので、担任の先生は子供たちに上からの意見を押し付けます。
校長や教頭は、保護者からのクレームや教育委員会からの方針に従わざるを得ないので、校長が担任の先生に話す内容にはどこか説得力がなく、それを聞いた担任の先生が子供たちに話す内容はさらに説得力がなくなるので、こういうときは権力を行使します。
昔から保護者からのクレームはあったと思いますが、モンスターピアレントという言葉が社会で取り上げられるようになってから、学校側は親の意見に強く反対しなくなりました。
学校は子供たちの成長の場であるはずが、様々な思惑が渦巻くところは、まさに陰謀論的です。
そして子供たちの意見よりも学校にいない人の意見が優先されるところは、まさに今の民主主義の状態です。
「国は国民のことを考えていない、アメリカの言うことばっかり聞いている。」という意見は、まさに子供のころに感じていた学校での理不尽にそっくりだと思います。
学校の教育方針は平成に入ってから2回変わっています。
1回目はスパルタ教育からゆとり教育への切り替え、2回目はゆとり教育から褒めて伸ばす教育への切り替えです。
これも子供のことを考えてというよりも、社会で問題になったことで変わっていっただけです。あの頃を思い出してみると、急にモンスターピアレントが取り上げられ、なぜかそういうときは従うのが吉であるという風潮になりました。体罰が問題になったときも、様々な学校の体罰教師が取り上げられて、体罰全面禁止になりました。
体罰に関してはとにかく暴力がダメという行動の部分ばかりが指摘されて、そこまで至った経緯に触れることはありませんでした。モンスターピアレントは昔からいたはずなのに、大々的に取り上げたことで、増えているように感じました。だいたい、ああやって取り上げると、自然と増える傾向にあるので、増えているのか、報道したから増えたのかは、わからないのです。こういうことが報道されると、先生は非常にやりにくくなり、やがて「誰かルールを決めてくれ。」と思うようになります。
このことを振り返ると、何かが変わるときには、一定の主張が大々的に報道されて、経緯などの話の中身はそっちのけで、とにかく変える空気になっていたことがわかります。
これはもう教室の外であり学校の外の話にはなりますが、当時学生だった僕には、僕の通っている学校には起こってもいないことが、どこの学校にも同じようなことが起こっていると言わんばかりのニュースを見て、違和感を覚えていました。
では結局いまの子供はゆとり教育の時よりも、スパルタ教育の時よりも元気で健康的なのでしょうか。
不登校が増えているということは、それだけ学校に行きたくないと思う子供が増えているということになります。体罰やモンスターピアレント、スパルタ教育をしていた頃から比べて、学校には何かが失っていると考えられるでしょう。
なんでもそうですが、1つやめるとそれだけを失うわけではありません。
嫌な仕事を辞めれば収入が無くなるように、良いものも無くなっていきます。
教育は変化に従って、何を失ったのでしょうか。
今、与党が過半数割れをしたり、選挙では今までとは違うやり方と主張が影響しています。まさに何か変わろうとしている空気感があります。
体罰やモンスターピアレントの時の状況と、その後の教育のあり方を考えたとき、当時と同じような空気感があれば注意しないといけないでしょう。
変化するということは、悪いものが無くなるだけではなく、良いものも無くなります。
未来のことは分かりませんが、無くなるもののことも踏まえて「変わったほうがいいのか?」とよく考えないといけないでしょう。
社会のことを考える時、社会全体をみようとすると、何が何だかわからなくなります。
色んな人がいますし、色んな考えがありますし、スケールが大きすぎて、その大きさを経験していない僕たちには判断ができません。
なので流れに流される傾向にあります。
しかし大きさの違いだけで仕組みは似ていると思えば、学校や会社という組織は似ています。
似ているので、自分の経験談から判断できるのではないかと思います。
会社の所属部署よりも教室の方が、色んな人がいます。
クラスは部署のように職業で分けていないので、より社会全体に近いと思います。
自分の学生時代を思い出せば、似ている構造が沢山あると思いますので、ぜひ一度そういった視点で振り返って、参考にしてみてください。
化粧品研究者こまっきー
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