“好き”という気持ちは、自分から出てきた気持ちであり、特別なものなので、僕は大事にしなければいけないと思います。
そうじゃないものといえば、学校の勉強です。
学校の勉強は好き嫌い関係なく、学ぶ時間がやってきます。
それも体育の後の数学は眠くなると自分では分かっているのに、それを避けることは出来ません。体育の後は美術とか、眠くなりにくい手を動かす授業に変えることも出来ません。
また授業で興味を持って、「豊臣秀吉のことをもっと知りたい。」と思っても、学校の授業は決められた範囲を教えることに精一杯なので、決められた情報以上のことを知ることは出来ません。
その場合は自分で別の時間に調べないといけないのですが、授業ではどんどん進んでいくので、いつまでも豊臣秀吉に拘っていられません。
その点、“好き”で始めたことは違います。
“好き”で始めたことは、自分がやりたいと思う時間だけ、自分がやりたいと思うことをすることができます。
習い事にしてしまうと学校の授業のように、決められた時間に決められた内容をしないといけなくて、学校と同じように進級制度になっていると、テストに合格するかしないかの思考になりがちです。
しかし本来、趣味のように自分の“好き”という気持ちから始めたものは、自分のペースで、自分の気になっている部分に着目して深堀りすることができるはずです。
習い事は学校と同じようではありますが、進級に重きを置かなければ、自分の“好き”は保たれます。ところが学校の授業やテストと同じように考えてしまうと、習い事も学校と同じような思考になってしまいます。
学校と同じような思考とは、つまり“受け身思考”です。
学校は自発的にならなくても、時間がくれば数学、国語、理科、社会と色んなことを教えてくれます。自分は興味が無くても、勝手に学ぶ時間がやってきます。
なので、ついつい“自分で考えなくても誰かが教えてくれる思考”になりがちです。
習い事は、親から言われて強制的に始めたものは受け身思考になっても仕方ないと思いますが、自分の興味で始めたものは、始めた時から自発的思考です。
毎週火曜日と木曜日は、友達と遊ぶよりもサッカーがしたいと思って、サッカーを習い始めます。学校の授業とは大違いです。
先ほど“できるはず”といいましたが、趣味以外に自分のペースで、自分の気になっている部分に着目して深堀りすることができるものは中々ないです。
趣味以外は、やらなければいけないことであったり、周りに合わせることが優先だったりします。
つまり趣味である“好き”なものほど、自発的に動けるものはないのです。
自発的に動くとは、つまり自分のために時間を使い、労力を費やすわけです。
周りの好き嫌い関係なく、自分が“好き”だから、動く。そんなこと、他にあるでしょうか。
なので、趣味である自分の“好き”は大切にした方がいいと思います。
同時に、“好き”で始めた趣味を学校のような“受け身思考”になってはいけないと思います。
そういう意味で、僕は検定というものが好きではありません。
検定は級ごとに学ばなければいけない内容が異なります。
3級なら3級のテキストがあって、そのテキストに書いてある内容を覚えなくてはいけません。
そして、次の級に進むには時間以内に合格基準以上の点数を取らなければいけません。
自分の興味のある部分を深堀しても、テキストに書いていない内容だったら点数は取れませんので、不合格になります。
学校の授業や受験のように、時間内に問題を解けないといけませんので、スピード勝負という向き不向きが出る条件もついてきます。
これでは学校と同じです。
また、テキストに沿って学ぼうと考えるので、自分の興味のある部分を深堀することがなくなります。よほど強い気持ちがなければ、大抵はテキストの波に乗るようになります。
一旦“受け身思考”になれば、自分の興味ある部分が分からなくなります。
自分の興味のある部分を深堀していけば、自発的に動いていれば、次々疑問が出てきます。
しかし“受け身思考”は、学校の授業の時と同じように、次に先生が教えてくれることを待つ姿勢になってしまうので、思考が止まり、自分の“好き”で自発的に動いていれば興味を持てた部分も、スルーしてしまいます。
検定は進級制度になっているので、合格して進級できると嬉しくなって、「また頑張ろうと思えるからいいじゃないか。」と思うかもしれませんが、その時点で自分の“好き”から離れています。進級は自分の興味のある部分を深堀して、それが分かって嬉しいのではないです。
それも少しはあるかもしれませんが、進級して3級から2級、1級と級が上がっていくごとに賢く、偉くなった気がすることや、達成感に喜んでいます。
だから、実戦では使えないことが多いのです。
進級制度は学校や国家資格のような、免許が必要な場合に限ると思います。
そしてそのイメージがあるので、検定で何級を持っている人は持っていない人よりも詳しく感じます。
検定で何級を持っている人は検定のテキストに書いてあることは知っていますが、それ以外はあまり知らないでしょう。そしてそのテキストの基準で判断します。
自分の“好き”を深堀した人は、検定のテキストに書いてあることはほとんど知りませんが、それ以外のことを知っています。
この2人はどっちの方が詳しいのでしょうか?
僕は知識には偏りがあるものなので、どっちが詳しいという判断は難しいと思います。
しかし、自分の“好き”を深堀して自発的に動いた人の方が詳しく、ペラペラと話せるだろうなと思います。
誰かが作ったテキストを追いかけるよりも、自分の“好き”を深堀した方が、1つの疑問を調べて解決していくことを繰り返すので、自分の中でストーリーが描かれていきます。
「なんでこうなる?」「ああ、こうなるんか。」「じゃあこの場合は?」とどんどん繋がっていき、時には横に広く、時には縦に深く、情報が広がっていきます。
僕は自分の“好き”を深堀した人も詳しい人だと思われていいと思いますが、日本では検定何級を持っている人=詳しい人という先入観があります。
自分の“好き”から始める趣味と学校の授業はスタート地点から大きく違います。
趣味は自発的で、授業は受動的です。
それゆえに、学校の授業は受け身思考になりやすいです。
学校という場所は大勢に教えないといけませんので、そういうやり方で良いと思います。
学校で自発的を求めるというよりも、他で自発的になれる環境を作れば良いのです。
僕はそれが、自分の“好き”である趣味になると考えていますし、趣味ほど自発的に動きやすいものはないと思います。
これは自発的と受動的、どっちがいいかという話ではありません。
自発的に知る情報と受動的に知れる情報は違うのですから、どっちも必要です。
しかし今は受動的になることが多く、それゆえに受け身思考が染み付いているのではないかと思います。
だからこそ、数少ない自発的になれる趣味を受動的になってしまうような行動をしてはいけないのではないかと思います。
趣味に必要なのは、進級制度の達成感ではなく、自分の疑問や自分で立てた目標をクリアした時の達成感であるべきではないでしょうか。
世の中の流れに乗っていると、趣味もいつの間にか受動的になってしまいますので、自分の“好き”という気持ちは守る意識が必要だと思います。
化粧品研究者こまっきー
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