日本では、周りと違ったことをすることに抵抗があると感じる人が多いです。
みんなと同じ選択をすることが多いので、日本は同調圧力が強い国だと言われています。
しかし僕は、そうでもないんじゃないかと思っていますし、そうやって先入観を植え付けたいだけなんじゃないかと思います。「日本人は同調圧力が強いから。」と広告宣伝のように至る所で言うことで、何かあるときには「同調するべき。」と思うようにしているのではないでしょうか。
同調圧力は日本特有のものではないことが、コロナの時にわかりました。
欧米では、国は強制していないことを、教会が強制して、一定の条件を満たしていないと教会に入れないというルールがあったそうです。
これはもはや同調というか、強制圧力ですし、教会という場所がそんなことをしていいのかと驚きました。日本は村単位でルールのない同調圧力であり、欧米は宗教単位でルールのよる強制であり、同じようなことをしているように思います。
ちなみにあの頃、地元の天理教の分教会は、「こんな大変な時に一人でいるのは辛いだろうから、信仰関係なく、立ち寄ってください。」と声掛けしていました。分教会の近辺には一人暮らしの高齢者がいたので、そのように声掛けしていたそうですが、救済を掲げる宗教として正しい行動だったのではないかと思っています。
YouTubeにアップされている養老孟司さんの動画の中で、「飛行機に乗った時に、フィッシュorチキン?って聞かれるでしょ。あれほんとどっちでもいいって毎回思うんです。」という話がありました。欧米の人はこういうときに必ず自分はどっちがいいかを決めれるそうです。
僕はこの感覚が同調する流れに繋がっているんじゃないかと思います。
「とりあえず生で。」という言葉や一杯目に飲む飲み物を生ビールで固定することが見直されていますが、元々は大半の人が一杯目に何を飲むかなんて、気にしていなかったんじゃないかと思います。
僕はお酒が飲めませんが、友達同士で集まると、やっぱり殆どの人が生ビールを選びます。ビールを選ばない人はビールが飲めない人とお酒が飲めない人です。「生ビールは飲めるけど、今は日本酒の気分やから、一杯目は熱燗で。」なんていう人はまあいないです。
最初は生ビールで、その後におのおので焼酎にしたり日本酒にしたりと飲みたいお酒を選んで行き、それは文化のようになっているので一杯目に生ビールを本当に飲みたいから生ビールを選んでいるのか、一杯目は生ビールという先入観があるからなのかはわかりませんが、そもそも一杯目に何を飲むかなんて、対して拘りがないのではないでしょうか。
会社勤めをしていた時、営業所では月に1回飲み会がありました。
営業所全員で20人ほどいましたので、最初は当然のように生ビールが人数分運ばれてきます。
場合によっては瓶ビールだったり、ピッチャーの中に生ビールが入っていて、あとはこっちで分ける時もありました。僕はお酒が飲めないので、ビールをもらってもどうしようもないんですが、乾杯が終わるまではソフトドリンクを頼むのを待っていました。
一人だけソフトドリンクを頼んで、一人だけドリンクが来ていないから乾杯を待とうという空気になるのが嫌でしたし、そもそも最初の乾杯に何を手に持っていようがどうでもよかったので、とりあえずビールを持って乾杯をすれば、飲み会を始めることができます。乾杯が終わってからそのビールは同僚にあげて、ソフトドリンクを頼んでいました。とりあえずスムーズに乾杯が始まれば良くて、「何がなんでも烏龍茶で乾杯がしたい!」なんて思ったことはありませんでした。
学生の時もこういうことがありました。
多数決をする時に、「なんでもいい。」「どっちでもいい。」と思う場合は、頼まれでもしない限りは、頼まれて面倒だなと思わない限りは、大多数の意見に合わせていたと思います。
この「なんでもいい。」「どっちでもいい。」という感覚が時に同調に繋がるのではないかと思います。それを欧米の人が見れば、「日本では一杯目に自分が好きな飲み物を頼むことができないのか。」と思うのではないでしょうか。
または、「よく分からない。」時も同調する傾向があります。
いつも見ているテレビや新聞やSNSの内容からではよく分からない時に、調べて自分なりに考えをまとめることはしません。よくわからない時は、いつも見ているテレビや新聞やSNSの内容に合わせて行動します。または、職場などの空気に合わせて行動します。
なんとなく「それは良くないんじゃないかな。」と思っていても、確信がない限りは「よく分からない。」時と同じ行動をします。
反対に、確信がある時は全く同調せずに我が道を進みますから、日本人が同調する時というのは、なんでもいい時やよく分からない時なのではないでしょうか。
我が道を進む時は、確信があることの他には、好きなこともそうです。
自分はこれが好きという自覚があります。
自分の好きなことは、たとえ周りが興味を示さなくても、「えー。」と言われても、関係ないと考えます。あんなに同調していたのに、好きなことに関しては周りに合わせないどころか、別に無理して同調してもらいたいとも思いません。
そういう意味では周りの反応に流されている場合は、そこまで好きではないのかもしれませんし、同調圧力という先入観に惑わされているだけなのかもしれません。
どっちか分からないので、自分は本当に好きなんだろうかと悩むわけですが、こうして考えてみると、自分の好きなことは周りと同じではないのです。
それは好きなもの同士で集まった時でもそうです。
同じ趣味同士で集まると、なぜか同調圧力の先入観が働き、みんな同じ好きであると勘違いする傾向があります。しかし、好きは周りと被る部分はあってもピッタリ同じではありません。
例えば好きなアーティストが一緒の人と話をしていても、好きな部分は違うと思います。
二人で話しているときなら、自分の好きが保たれるのですが、これが大勢になると、とたんに自分の好きが失われて、大勢の好きが自分の好きであると錯覚してしまうことがあります。
勝手に同調圧力のスイッチが入ってしまうのでしょうか。
または、途中までは自分の意見があるのですが、途中からよく分からなくあsなってきて、同調してしまうこともあるでしょう。
「日本人は同調圧力が強いから。」と広告宣伝のように至る所で言い続けたことで、入らなくてもいい時に同調スイッチが入ってしまっています。
そのせいで、自分の好きが分からなくなっているように思います。
自分には強い意思があると思っている人でも、同調する時はあるので、それと社会の空気感が合わさって、時に好きなことや自分の考えが分からなくなります。
おそらく、同調する時は“どっちでもいい時”と“よく分からない時”です。
そうじゃない時は、自分にはちゃんとした意見や気持ちがあります。
同調圧力の先入観や同調スイッチは取れそうにないですから、うまいこと付き合うためにも、同調する時はどっちでもいい時やよく分からないと感じた時であると、考えておいた方がいいかもしれません。
化粧品研究者こまっきー
↓こちらへどうぞ↓