化粧品研究者こまっきーの語り部屋

化粧品研究者こまっきーが普段考えていることを書き留める、日記のようなもの。

神社は願うところじゃない。

化粧品の研究をしながら、自身の慢性疾患を治すために色々な勉強をしているのですが、改めて大学の時に学んだ生物学や生命科学の必要性を感じて復習しています。

そして化粧品の研究、慢性疾患の治療、基礎知識、とそれらを学んでいく中で、どの分野でも行き着く疑問は「身体は誰のものだ?」ということでした。

化粧品といえば肌のケアです。
肌が荒れないように、ニキビが出来ないようにと毎日スキンケアをしていると思います。ですが、肌が荒れたときやニキビが出来たときに「肌荒れよ、治れ!」と頭の中で自分に命令しても、身体は全く言うことを聞いてくれません。
肌荒れもニキビもターンオーバーという周期に沿って、勝手に治まっていきます。

病気の治療も、例えば風邪を引いて熱が上がってシンドい時に「熱を下げろ!」と頭の中で叫んでも、熱は下がりません。
体温は勝手に上がって勝手に下がります。

身体が自分のものであるならば、命令すれば聞くはずです。
ですが、肌荒れもニキビも、風邪を引いて発熱したときも、僕たちの命令はまるで届きません。

身体は僕たちの命令なんて、なんにも聞いていません。
身体は僕たちが感じたことや動いたことなどの、精神的や肉体的な部分を感じて身体の働きに反映することはあっても、僕たちの命令には耳を貸しません。

「だったら身体は誰のものか?」
化粧品の研究と慢性疾患の治療をしていると、この疑問に行き着きます。

身体以外にも、僕たちの命令を聞かずに生きているものがあります。
それは大きく言えば自然です。土も木も、僕たちの作る環境に影響はされても、命令は聞きません。だからスギやヒノキは春になれば花粉を飛ばします。
いくら僕たちが「そんなに飛ばしたら、花粉症が酷くなるから辞めてくれ!」とスギやヒノキに言っても、全く耳を貸してくれません。

このスギやヒノキの花粉と、身体のことは似ていると思いませんか?

「身体はこのスギやヒノキと同じように、自然のものではないか?」というのが僕が化粧品の研究や慢性疾患の治療を通して出した答えです。
そして自然は誰が作ったのかというと、作物の実りをお祈りするように、神ということになります。

つまり、身体は神のものであり、僕たちはそれを借りて生活をしている。
意識と身体は別物であると。
そう考えれば、身体が僕たちの命令を聞かないのは当然です。

むしろ神からの借り物であるならば、大切に扱わないといけないでしょう。
肌荒れは僕たちの行動のせいで、身体に悪影響を及ぼした結果です。
「肌荒れ早く治れ!」と思うのではなく、身体をぞんざいに扱ってしまったことを反省するべきです。

大切に扱うということは身体に合わせて生活するということです。
自分の意識の欲に合わせて、やりたいことばかりするのではなく、身体に合わせて欲を満たすということです。
それが健康というものであると考えています。

神社は神の社です。神のマイホームです。
神社というのは、僕たちが家に帰ってホッとするように、身体がホッとする場所なのではないでしょうか。

実際に神社に行くと、空気が澄んでいて気持ち良く、なんだかホッとします。
神社というのは身体を休める場所のように思います。
定期的に神社に行って、身体を休める。ただお参りするだけで清める効果があるかは分かりませんし、少しの時間で良いのかは分かりませんが、少しの時間でも落ち着くのは事実です。

そう考えると、神社は願うところではないでしょう。
神にも沢山の神がいます。沢山いるということはそれぞれ考え方が違い、よい神もいれば悪神もいるということになります。
身体を清める場所で「◯◯になりますように。」と願ってしまっては悪神が寄ってきてしまうでしょう。
お祈りと神頼みがごっちゃになってしまってる気がします。

ちなみにお寺は座禅のように、意識を清める場所であると考えています。
心を無にして、邪念を払うというのは、意識の部分であります。
身体の神社と意識の寺が一緒になっている場所がありますが、それは人そのものだなと思います。

僕は神学には疎いので、詳しい人からすれば表現がめちゃくちゃかもしれません。
ですが昔から「なぜ神社で願いを言うのか?」という疑問があり、化粧品の研究や慢性疾患の治療を通して、身体は神からの借り物ではないかと考えるようになりました。

となれば、借り物は大切に扱うべきで、日々の生活は身体に合わせて過ごすべきです。
神社とは「いつもありがとうございます。」と借りている身体への感謝を告げ、身体を清める場所であると、神頼みする場所ではないと、そう思うのです。

化粧品研究者こまっきー

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