僕が小学低学年の頃に、家の前にあった社宅と駐車場らしき雑草が生えたスペースが無くなり、建売住宅が立ち並びました。おそらく2000年前後です。
僕が通っていた小学校は町内よりも更に小さく細かくグループ分けをして、集団登校をしていました。僕が住んでいた町内は、建売住宅が建ったことで小学生が増えたので、こっちの道1本と隣の道1本でグループを分けて集団登校していました。朝8時ごろに小学1年生から6年生までが集まって、登校していました。
これが当たり前だと思っていたのですが、どうやら集団登校がない小学校もあるみたいです。
目の前が社宅だった頃は、社宅は僕の家の道ではなく隣の道と繋がっていて、社宅は背中を向けていました。また、社宅は夜になっても灯りが2つあるかないかくらいだったので、ほとんど人も住んでおらず、社宅から人が出てくるのをみた記憶もないくらいでした。
そこに建売住宅が建つと、新たなご近所付き合いが始まりました。
それまでは目の前の社宅以外は、文化住宅と大きな家が一軒あるくらいでした。ご近所付き合いは、会えば挨拶をしたり少し話をする程度ですが、文化住宅と大きな家一軒だったのが、建売住宅が15軒も建つとご近所付き合いも変わってきました。
ご近所付き合いはするしないと意識しなくても、子供が学校を休むときは、集団登校の集合時間までに親は休むことを班長に言わないといけませんでしたので、そういうところから自然とコミュニケーションが生まれてきます。
子供を玄関まで送ったり、子供が玄関に置いたまま忘れていったお弁当や体操服を届けるのに集団登校の待ち合わせ場所まで親が行ったり、不審者が出ているという話が入ると自主的に待ち合わせ場所で待機している親がいましたので、“THE・ご近所付き合い”を意識しなくても、「あら、今日は○○く休みなん?」と聞かれ、「せやねん。朝からシンドいって言うから熱測ったらな〜。」と会話が始まります。
すると、晩御飯のときに母が「○○くん、熱でたらしい。こないだも熱出してたなあ。」とか今日仕入れたご近所の世間話をしていました。
僕たち子供も会えば挨拶をしていましたので、「この人は○○家のお母さん、この人は○○家のお父さん。」と、ご近所の家族構成を知っていました。
わからなかったのは、自分たち小学生と縁のない、小学生のいない家くらいでした。
ご近所付き合いが、文化住宅と大きな家一軒だけだったのが、建売住宅を含め20軒の規模になると、ルールが出来始めます。
集団登校と同じグループで回覧板があるのですが、その回覧板を回す順番、回覧板を管理する人をどの順番でどれくらいの期間行うかなどなど、今まで適当で良かったところに小さなルールが出来始めました。
すると、リーダー気質の人が「もっとこうした方がいいんじゃないか。」と言います。
その人は良かれと思って言っているのですが、そういう話をすることも、こうしてルールが増えると、関心がない人にとってはなんとなく疲れます。
ただの世間話もなんだか億劫になってきます。
職場なら「給料もらってるんやし。」と割り切れても、なぜ家の近くでここまで気を使わないといけないのかと思う人が増えていくと、ただのコミュニケーションだった“ご近所付き合い”が話題になり、近ければ近いほど距離を置くようになりました。
これは人口が増加傾向で、近くに建売住宅が建って、マンションが建って、人が集まるような状態であれば、人が集まればルールが出来てしまいますので、ご近所さんと距離を置くくらいのほうが丁度良かったのかもしれません。
僕は挨拶くらいはしてもいいんじゃないかと思って、挨拶はするようにしているのですが、知らんぷりされることは結構あります。なにか過去に嫌なことでもあったんでしょうか、明らかに目線を合わせないようにしている人もいます。
しかし、人口が減ってくると、そうやって近所の人とコミュニケーションを取らなくていい状態では無くなるでしょう。
昔と違って、スマホなどの機械が普及しているので、機械に頼ればいいと思うかもしれませんが、機械を使ってみて分かる通り、機械に合わせないといけません。
お店で注文をする時も、口頭なら多少ニュアンスが違っても店員さんは理解してくれますが、機械はそうはいきません。
機械が進める順番に合わせて注文していかなくてはいけませんし、機械ごとに設定が異なりますので、その機械ごとに合わせないといけません。
人なら「あの〜ほら。あれなんでしたっけ。こういうやつ。」と意味不明な言葉とジェスチャーで伝わることがありますが、機械ではそうはいきません。
ここ数年でさまざまな所で機械が導入されたことで、「これ、人の方が早いし楽じゃないか?」と思うことは結構あったんじゃないかと思います。
お店での注文にしても、のっそりとした動作のタッチパネルから探すよりも、メニューの中で自分が見たい部分だけみて、注文する方が客側からすると楽だと思います。
メニューを見なくても決まっている人からすれば尚更で、決まっているのにそれを注文するためにタッチパネルから探さないといけないのは、ほんと面倒くさいです。
しかし、そうはいってられない状態になっていく、なっているのでしょう。
注文するときのタッチパネルのように、機械はざっくりとした対応しかしてくれません。
そして人に合わせるのではなく、こっちが機械に合わせないといけません。
人と人なら寄り添い合うことができます。わざわざ知識を入れなくても、取説を読まなくても、今までの生活の経験上、たいていの場合はなんとなくでなんとかなります。
しかし機械は一歩も譲りません。
注文というボタンを押すまでは、決して注文は通りません。
店員さんだったら、注文した後に黙っていても、みんなで喋り始めても、それで注文終了と理解してくれますが、機械は空気を読んではくれません。
機械によって便利になった部分はたくさんありますが、これからは便利以上に、人が減っていることで、機械に置き換えないといけない部分が増えていきます。
そうなると、改めて人と人のコミュニケーションを大事にするようになるのではないかと思います。面倒だと思って避けていたことよりも、コミュニケーションをとった方がいいと思う気持ちが大きくなるのではないかと思います。またそうしないと、機械任せでは成り立たないことが出てくるでしょう。
ネットで注文とか、街中とか、大きな括りのシステムは機械でなんとかなるかもしれませんが、ご近所はそうはいかないと思います。
道1本違えば異なっていたご近所の様子は、コミュニケーションのない今でも変わっていないと思います。そこに住んでいる人が違うんですから、ご近所付き合いの様子は必ず変わります。
ざっくりとしたルールはどこも同じでも、ちょっとしたニュアンスは必ず違います。
そのちょっとしたニュアンスの違いは、結構大事だったりします。
私たちは再びご近所付き合いが必要になった時、協力できるのでしょうか。
それとも機械任せで完全に孤立していくのでしょうか。
今のようにルールで縛る人と人とのお付き合いには限界があると思いますので、近いうちにどちらかに傾くのではないかと考えています。
化粧品研究者こまっきー
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